2012年2月8日水曜日

映画 『くたばれ!ハリウッド』 超絶主観による真実





 『くたばれ!ハリウッド』/2002/監督:ブレット・モーゲン&ナネット・バースタイン/米/カラー/2012.7記

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 「どんな話にも3つの側面がある。相手の言い分、自分の言い分、そして真実。誰も嘘などついていない。共通の記憶は微妙に異なる」冒頭で主人公ロバート・エヴァンズが語る言葉。ドキュメンタリ映画に括られているが、貴方が思い描くジャンル像を打ち砕いてくれる映像的刺激に満ちた、実にアニメ・漫画的なドキュメンタリ映画である。





 さて、この映画はハリウッドの名プロデューサー、ロバート・エヴァンズ氏の一代記だ。全編ナレーターがエヴァンズ本人の独り語りという素敵使用。彼は「ローズマリーの赤ちゃん」でロリコンロマン・ポランスキーを見出し、「ゴッド・ファーザー」で“我儘王様”フランシス・フォード・コッポラを一流監督のレールに乗せさせた凄い人だ。そんな彼の“主観”全開でドキュメンタリにおける公平な編集など完全撤廃してエンターテイメントに仕上げられているのがこの映画。


 ドキュメンタリをあまり見ない人にとって、このジャンルは記録映像とインタビュー映像の組み合わせというのが一般的なイメージだろう。そうした硬いイメージで捉えられがちなのが残念だ。実際は、登場人物の心理描写や作劇のルールという、劇映画だからこそ存在するルールが無いので、やりたい放題できるのがこのジャンルの魅力。





 「真実を映すのがドキュメンタリ」というルールがあるじゃないかと言われそうだが、それは罠だ。記録された映像は、一見して真実を切り取ったかのように見えるが、撮影者が何を選んでとったかという選択行為が行われている。また、撮影した後でも、どれを公開する映像につかうかという編集行為が介在する。これは映画以前の写真文化から議論されてきたことで、デジタル技術の発展により、それはより顕著になった。


 この映画ではエヴァンズ本人が顔出しNGと言ったので、仕方なく(?)昔の雑誌の切り抜きやら、姉ちゃん達との写真等、ありったけの資料を組み合わせて全然関係ないシーンに組み合わせて一本でっちあげている。スライドショーなんて生易しいものじゃなく、人物と背景をコラージュする事で、動かない写真が動いているように見せているのが実に刺激的。実際の映像をつかわない事で、時間の冗長さから解放されたドキュメンタリは、エヴァンズの濃密な人生をハリウッド史と組み合わせ、90分という実にコンパクトなサイズでエキサイティングに仕上がっている。





 漫画・アニメ的と言ったのは、手法が実に似通っているからだ。漫画やアニメは時間的制約に囚われない。コマやカットの間で時間を操作し、登場人物達の動きを自由にさせる事で、映像的圧縮が可能になり、長大なストーリーや膨大や登場人物がいてもスッキリまとめあげる事が可能だ。アニメや漫画であれば、「撮影されていない場所」なんか存在しない。ありとあらゆる場所にカメラを持ち込み、編纂する事が可能だ。それを実写でやってみせたである。


 意図的にエヴァンズの主観のみで作り上げられた、エヴァンズとその周りの人々の人生。実にあくどい映画だ。純愛のように語られるエヴァンズの結婚はその前後に数回、結婚と離婚を繰り返しているし、コッポラを拾い上げたのはエヴァンズのように語られるが起用を反対していたのはエヴァンズ本人だという話もある。だが、そんな事はどうでもいい。


これはエヴァンズの映画である


 つまり、エヴァンズというカメラが映してきた彼の人生なのである。観客がエヴァンズ本人に成れるのだ。エヴァンズはエヴァンズにしか成れない。彼が今、そう思い出しているのだから、今の彼にとってはそれが、彼の人生なのだ。まさに今、切り取られたエヴァンズの主観。ドキュメンタリ映画である。


映画というものが、ドキュメンタリというものが、如何に虚実入り乱れたインチキな代物であり、エキサイティングで面白くなれるという事を、我々に刺激させる“作品”だ。


※ところで原題を直訳すれば「奴は今も(映画に)居るぜ」といった感じになるのだが、意味不明の邦題も、エンターテイメントの為の編集文化で成り立つハリウッドそのものと、当作品を重ね合わせる事により皮肉でつけたタイトルとも解釈できる。


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記:ヒロト


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