『奇談』/2005/監督:小松隆志/原作:諸星大二郎「生命の木」/日/2012.5.01記 ----------------------------------------------------------------------- 諸星大二郎原作の映像作品と言われて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのはあの爽やかスプラッタ青春オカルトムービー『妖怪ハンター ヒルコ』でないかと思う。原作は妖怪ハンターの一作目である『黒い探求者』に『赤い唇』のテイストなどを盛り込み、およそ稗田礼二郎とは似ても似つかないジュリー演じるズッコケ教授がヘンテコ装置でヒルコを退治しようとする……あらすじだけ書くと原作ブチ壊しの駄映画みたいだがこれが何故か奇妙に出来が良い。原作とは別物だが別物なりの佳作なので未見の人は騙されたと思って一度見てみることをオススメしておく。 ……と。 そんなヒルコとは打って変わって『奇談』はなるべく原作の雰囲気に寄せて撮られている。妖怪ハンターシリーズの『生命の木』に、『天神さま』の要素をミックスしたこの映画は、東北の山奥にある隠れキリシタンの村、謎の神隠し、生命と知恵の木の実などのキーワードを散りばめたオカルト映画だ。 オカルト映画というとジャンル的にホラーの中に分類されがちだが、全てがそういうわけではない。伝奇伝承神話民話などに基づき作られた超常、怪奇現象をテーマにする物語は別段ホラーとしての目的を有しているわけではないからだ。単にホラーとオカルトは食い合わせが良いと言うだけの話で、この映画の場合はホラーとしての要素は殆ど無く、それ故に今どき珍しい純正のオカルト映画なのだ。 大学院生の佐伯里美には、幼い頃ある一時期の記憶が欠落していた。東北の親戚に預けられた際、一緒に遊んでいた少年新吉と共に神隠しに遭ったとされる時の記憶だ。その失われた記憶を求め、彼女は幼い頃の微かな記憶を頼りにかつて隠れキリシタンの里でもあった渡戸村へ赴き、そこで『妖怪ハンター』などとあだ名される異端の考古学者・稗田礼二郎と出会い、二人は村の謎を追っていく。 渡戸村には【はなれ】と呼ばれる隔離地区が存在し、そこの住民は全員が七歳程度の知能しか有していないのだという。村で信仰されるカトリックとはまるで異なる信仰形態をもつ【はなれ】の住民の手による聖書をなぞらえた謎の奇行、古来より連綿と続く神隠しの歴史、永遠に死なないとされる「はなれ」の住民達、【はなれ】の重太老人が畏れながら口にする【いんへるの】【ぱらいそ】……。 調査を進めていく内に、稗田はかつてヨーロッパの宣教師達がこぞって日本に渡来した影に「日本には生命の木が生えている」という伝説が当時まことしやかに流れていたのを思い出す。そして【はなれ】の外れにある洞窟の中で、稗田達は驚愕の【奇蹟】を目の当たりにすることになる。 見終わってみると、そつなくまとめてあるようで『生命の木』と神隠しネタが思った程マッチしていなかったことに気付く。どうも摺り合わせが弱いというか、元々の原作が短編としてきっちり完結してしまっているので余分な要素を加えるのが難しいのだ。その点、『ヒルコ』の方が原作を重視していない分好き勝手に出来てしまっているとも言えるのだが、『奇談』の雰囲気作りへの努力は評価したい。音楽も川井憲次の偽神的な曲調がぞわりとくる。 阿部寛の稗田礼二郎に関しては、映画館で初見の際はあまりに厳つすぎて「なんだこのマッシブで古武道やってそうな雰囲気の稗田先生は」と違和感もあったものの、DVDを何度か見直しているうちに気にならなくなった。知的でぶっきらぼうな雰囲気はむしろはまり役だったのかも知れない。特に真相に迫る際の淡々としつつも早口に捲し立てる演技は原作の稗田の特長をよく捉えていると言えるだろう。新作が執筆される際には「先生、最近古代ローマ人に似てるって噂ですよ」「よせやい」といった掛け合いでも欲しいくらいだ。 諸星大二郎作品の映像化は非常に難しい。今時のエンターティメントとしてはどうしてもパンチに欠ける面は否めない。それでも、原作が持つ「オカルト作品」としての完成度と魅力はそれらを補って余りあるもので、その完全な映像化はファンとしてはどうしても期待してしまう。昨今の音と映像頼りな、ホラーとは趣の異なる、超常怪奇への好奇心を刺激してくれるオカルト映画が少しずつでも作られ続けていくことを願ってやまないのだ。 ああ、『闇の客人』あたり映画化されないかなぁ……。 ----------------------------------------------------------------------- 記:みじゅ |
2012年5月26日土曜日
映画 『奇談』 「先生、最近古代ローマ人に似てるって噂ですよ」「よせやい」
2012年4月21日土曜日
映画 『人狼 JIN-ROH』 汝は人狼なりや?
『人狼 JIN-ROH』/2000/監督:沖浦啓之/原作・脚本:押井守/日/アニメ/2012.4.01記 ----------------------------------------------------------------------- 間もなく監督の新作『ももへの手紙』が公開されるな楽しみだなぁとか思いつつ人狼公開から既に十二年が経つことに気付き愕然としています。自分はまったく獣とは程遠い生き方しか出来ないのだなと思い知らされるには充分過ぎる年月でした。そんなわけで『人狼 JIN-ROH』です。 人の皮を被った獣の物語。狼であり、犬であり、心を持たぬ殺戮機械である紅い眼鏡と赤ずきんの、ひたすら物悲しいおとぎ話。 「人と関わりをもった獣の物語には、必ず不幸な結末が訪れる。獣には、獣の物語があるのさ」 第二次世界大戦でドイツが勝利した架空の世界で、ようやく占領統治下から抜け出し半ば強引に経済成長を推し進める日本。そこで繰り広げられる反政府組織と警察の闘争、警察内部での公安と特機隊の暗闘といった人間と人間の争いの中で静かに牙を剥く獣達。 ひと――おおかみ。 主人公、伏は首都警特機隊に所属する獣だった。その冷酷なはずの獣が、何故かセクトに所属する爆弾運搬役の少女を撃てなかった。そのせいで少女は自爆し、伏は降格と再訓練を言い渡される。物語はそこから始まる。 公安に所属する友人、辺見に頼んで自爆した少女について調べた伏は、彼女の姉を名乗る女性、圭と出会う。圭との交流で、人間らしい情や温もりに触れ、次第にそれを求めるようになっていく伏。しかし圭は特機隊失墜のために公安が仕掛けた罠だった……。 特殊部隊員と女スパイの悲恋ものに、童話赤ずきんのエッセンスを加えたストーリー自体は比較的単純な映画だ。以前にある知人が口にした言葉を借りるならまさしく「ハードボイルド赤ずきん」。この映画は、残酷な童話なのだ。 伏に限らずこの映画の登場人物は皆感情の動きが少ない。少ないからこそ、ほんの僅かな起伏が際立つ。中でも伏の感情の動きは殊更に痛ましい。ずっと獣として生きてきた男が、ようやく手に入れた人としての安らぎと自分の生き様との間で揺れ動く様がとても悲壮に描かれている。果たして【ひと】でありたいのか、【おおかみ】なのか。 その一方でヒロイン【赤ずきん】である圭の在りようも、やはり悲しいものだった。 反政府活動に疲れ、安息を求めていた【赤ずきん】の圭は、警察内部の派閥争いという迷いの森の中で、伏という【おばあさん】と出会う。【赤ずきん】と【おばあさん】の交流はとても静かで、慎ましく、穏やかなものだった。けれど結局、【おばあさん】の正体は【赤ずきん】を騙している【狼】なのだ。 クライマックス、独りでプロテクトギアに身を包み、無慈悲に公安を追い詰めていく伏。中盤の再訓練シーンでプロテクトギアは着装時の死角等の問題からフォーメーションが前提の装備だと自身の口から説明していたにも関わらず、単独の伏は銃弾に敢えて身を晒すようにしながらどこまでも機械的に対象を抹殺していく。自らの人間性を冷たく突き放し、ねじ伏せるかのような暗く無機質な殺戮シーンだ。棒立ちで銃を撃ち続けるプロテクトギアには何とも言えない凄味がある。そして「お前だって、人間じゃねぇか、伏!」と叫んだ辺見をも撃ち殺した伏を待っていたのは、圭を撃ち殺せという無情な命令だった。 ただの機械になりきれず、ほんの一時、他者の温もりを欲して人という存在に憧れた獣は咆吼する。ラストシーンの圭の悲叫と伏の痛哭はひたすらにやるせない。 銃声が響く。 その銃声は【狼】を撃った【猟師】のものではない。 【猟師】は【赤ずきん】を助けてはくれない。もっとも古い童話には【猟師】は登場すらしない。 童話の結末が覆ることは、無かった。 どれだけ人に焦がれようとも、【狼】は所詮、【おばあさん】の皮をかぶっただけの、獣なのだ。 「そして狼は、赤ずきんを食べた」 ----------------------------------------------------------------------- 記:みじゅ |
2012年2月15日水曜日
映画 『呪いの館 血を吸う眼』 和製吸血鬼幻想
『呪いの館 血を吸う眼』/1971/監督:山本迪夫/日/カラー/2012.2.14記 ----------------------------------------------------------------------- 岸田森は吸血鬼である。 岸田森と言えば、牧史郎だったり嵐山長官だったり水島三郎だったり坂田健だったり南原捜査官だったり……ともあれ、特撮をそれなりに見ていれば必ずと言っていいくらいお目に掛かる名優の一人だ。主演だろうと助演だろうと彼は常に画面内で独特の存在感を放っている。 孤独で、寂しげで、子供向け特撮で明るい演技をしていてもどこか影のある岸田はまるで異邦人のような役者だった。 そんな彼の東宝映画における代表作に、和製吸血鬼映画『呪いの館 血を吸う眼』と『血を吸う薔薇』がある。 ハッキリ言ってしまえば日本という国は吸血鬼には似つかわしくない。日本の伝奇や怪談というのはじっとりジメジメとした人間の情を前面に押し出したものが多く、それがやはりお国柄なのだろう。対して吸血鬼というのは、鮮血は滴れどあくまでドライでクールな題材だ。実際、血を吸うシリーズの一作目に当たる『幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形』はあくまで和風なホラー映画だった。 それを二作目で吸血鬼映画たらしめたのは、岸田森が演じたからだ。 画面の中の彼はまさしく吸血鬼だった。要所要所で他の役者達と同様顔を青白く目の下にわざとらしいくまを入れてドラキュラメイクをするのだが、正直そんなものは必要無かった。彼の吸血鬼度を著しく損なってさえいた。彼はただ立っているだけでナチュラルボーン吸血鬼なのだ。 柏木秋子は悪夢に悩まされていた。幼い頃に愛犬と共に迷い込んだ洋館で目撃した女性の死体、薄気味の悪い老人、そして口元を血で汚した青年の金色に光る妖しい眼……。 ある日、秋子の隣家に大きな棺が運び込まれる。以来、愛犬は殺され、親切だった老爺や最愛の妹である夏子は豹変し、遂には夢で見た幽鬼のような青年が現実に現れた。 恋人である医師・佐伯の協力で失われた記憶を探る秋子。 幼い彼女が洋館で出会ったのは果たして何者だったのか……。 赤茶けた空、湖の畔、枯れ枯れのススキ野原、寒々しい森、そして洋館。 ゴジラ対ヘドラなどでお馴染みの眞鍋理一郎によるおどろおどろしい音楽。 そこに、岸田がいる。 幼い少女を自らの花嫁と見定め、十数年の月日を経てもつけ狙う悪辣な吸血鬼。 酷いロリコン野郎なはずなのに不思議とそうは見えない。 それは、彼が人間の条理から外れた吸血鬼だからだ。 佐伯は吸血鬼をキチガイ呼ばわりする。自分を吸血鬼だと思い込んでいるだけの狂信者だ、この世に悪魔なんていない、と罵る。その言葉を嘲笑うかのように、岸田森が暴れるのだ。獣の如き唸り声をあげながら、それでもどこかクールに、ダンディに立ち回る。 森の中に、洋館の階段上に、棺の傍らに。ひっそりと物静かに佇む爬虫類的で植物的な面差し。 岸田森は、やはり吸血鬼なのだ。 ----------------------------------------------------------------------- 記:みじゅ |
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