2012年5月30日水曜日

映画 『オペラ座の怪人(1925)』 稀代の怪優







『オペラ座の怪人』 /1925年/監督:ルバート・ジュリン/米/モノクロ/2012



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 言わずと知れたガストン・ルルーの小説を映像化したもの。1916年にドイツで製作されたものに続き映画化は2度目となり、一般によく知られている視聴可能なオペラ座の最初期となる作品である。


 本作におけるオペラ座の怪人ことエリックは後の作品に見られるような悲しき背景を持った異形の天才と言った描かれ方はまだされておらず、生来の外見の醜さと歪んだ精神をもったサイコパスとして原作に忠実なキャラとなっている。演じるは『千の顔を持つ男』ことロン・チェイニー。彼の扮するそれはまさに狂気の天才である。仮面舞踏会において死神のような紛争で客人たちを前に演説する姿は怪人の美学と自信に満ち溢れているのだ。





 本作のエリックはやはり他の映画とは一線を画した魅力を持っている。顔をパテや針金を使用して変形させてまで創りだした骸骨のような顔とサイレント独特の大時代的な演技で見事に狂人を表現しきっていると感じてしまう(因みにこのメイク時、チェイニーは鼻に金属を通して整形するためものすごい量の鼻血を流していたとの証言もある)。悲哀性を感じられない分、悪としての魅力が思う存分楽しめるのだ。


 そして現在も保存されているというオペラ座のセットは何か巨大な装置を眺めているようでワクワクさせてくれる。オペラ座華やかな舞台から乱雑な楽屋、そして断面図のように映し出される汚水に満ちた広大な地下水道と本当に一体いくつの舞台がこの劇場に存在するのかわからない。 これが怪人の潜む居城なのだから、ゴシックホラー好きにはたまらないものがあるのだ。 前述したとおりエリックは不慮の事故で精神が歪んだわけでない。そのためか劇場に身を隠していると言うよりはこの暗闇を愛しているからこそ地下水道に居を構えてるような印象を受ける。


 それがまた彼を闇の住人としての魅力を否が応でも輝かせてくれるのである。


 しかし、当時の映画製作者はある意味【歌】が主人公でもあるこの作品をサイレント時代に製作しようと考えたものである。冒険的な製作ながら本作は大ヒットを記録し、ホラー路線に懐疑的だった経営陣を振り向かせることに成功した結果、この後ユニヴァーサルは数々のゴシックホラーの古典的名作群とキャラクター達を生み出していくことになる。




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記:るん





2012年5月27日日曜日

映画 『マイ・バック・ページ』 虚像は何者に成れるのか?





 『マイ・バック・ページ』/2011/監督:山下敦弘/日/カラー/2011.6.01記 ※2012.05.01加筆修正

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 安田講堂事件を経て、70年代も近づきつつある日本。革命は日本中の「知識層」を熱狂させ、社会は混乱の一途を辿っていた。だがその熱も冷め始め、次第に革命闘士の若者は社会に溶け込み、そして残された彼らは疎まれ始めていた。東京大学を卒業し、大手新聞社東都新聞(朝日新聞がモデル)週刊東都(週刊朝日)に勤める妻夫木演じる若者、沢田は焦っていた。ジャーナリストであるにも関わらずたいした記事も書かせてもらえない。前線に立ち革命闘士を追う東都ジャーナル(朝日ジャーナル)を横目で羨ましがる鬱屈した日々を過ごしていた。彼は既に卒業した者として安田講堂事件を遠目に眺めていた。一方で東大に通う松山演じる若者、梅山(偽名:片桐)は何かを変えたかった。目的は何もないが、革命を起こしたかったのだ。彼は東大入学前に安田講堂事件を遠目に眺めていた。





 時代の中心になれなかった若者が、彷徨い続け、あげく罪のない人を殺してしまい、そこからも逃げようと空転しつづけるダメダメ感が素晴らしい。実に笑える、胸糞悪い喜劇。そして骨組は現実に起きた物語なのだ。


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1.梅山

 松山演じる自称革命家梅山は、自身が設立した革命サークルで、同志と武装セクトに移行するかどうかで揉めていた。当初は文化的革命路線を提唱する仲間側が不利な空気であったが、「梅山君。君は武装革命をしてその先、何がしたいんだ?」と聞かれた梅山は「あぅ……あわわうー……」と、言葉に詰まってしまった。あげく「あ、そうか敵か、君は敵なんだな?我々を妨害しようとしている!」と相手を罵倒し自己批判を求めるよう強要する。これが数年前だったならば通用したかもしれないが、時代は変わりつつある。当初は梅山を支持していた講義室のサークル仲間達は、梅山の論点すり替えに反発し、サークル内での梅山の地位は失われる事になる。


 全世界的な新左翼の思考回路をうまく表した良シーンである。彼らはビジョンなどなき自らと外界を革命したかった子供達なのだ。方向性は違えど、WW1後のドイツでNSDAP運動に熱狂していた若者達も同じノリである。若者のはしかをこじらせるとこんな事になるのだ。



かつて教育学関連の教授に言われた、こんな言葉がある。


「なんで教師になりたいのか。言っておくけど、君達学生が実際に接した大人は、親と教師とテレビの向こうの人達位しかいない。それだけの世界観ならば、やはり親と教師とテレビの向こうの人達くらいしか、なりたいモノが無いんだよ」



 身分を偽って梅山達から金をまきとろうとした自衛官が、梅山達「赤邦軍」内ゲバ殺害を目前で見せられた事でビビり「同志!」とか言って、それまでの高圧的な自衛官将校(本当はヒラ自衛官)を演じていた態度を一変し犬に成り下がる下りなんて爆笑もの。内ゲバで殺された筈のメンバーは、赤ペンキを塗りたくったまま隠れて煙草をふかす。


 梅山が、疑心暗鬼になった恋人(ボスの威厳を保つ為のお飾り)を慰める(誤魔化す)為に「俺、お前がいれば他はいらないよ。俺はお前の為に世界を変えるよ」なんて、セカイ系よろしく台詞を吐いてセクロスしている隣の部屋(レオパレス以下の障子ごし)で、仲間の学生男女部下がペンキ塗りやらされるシーン。現実のセカイ系ってこういう事かと感心。


 部下と雑魚自衛官が、駐屯地で自衛隊殺害・武器強奪(揉みあいしている間に銃がどっか飛ばしてしまい、夜の暗闇で見つからず)しているのに、呑気にナポリタン食って漫画で笑う梅山。金がないから恋人に、妊娠したと親族から金をふんだくれとか言っちゃう梅山。自衛隊殺害事件が政治事件じゃなくて、単なる殺人事件として報道された後、行方をくらましていた梅山に対して、恋人と部下が「梅山さんは俺達を売ったりしないよ!」とか言ってくれているのに、捕まった梅山は仲間の居場所と名前を全部吐いた上に、「自分は責任者じゃない。実行犯は部下だし、実質指示していたのは別の人間(1・2回会って話しただけの京大全共闘代表前園)だ」とか言っちゃう。


 梅山=片桐のどうしようもない最低屑っぷりに、映画館でニヤニヤ。





 予告編の出来が非常に良く、松山演じる梅山が、さも大志抱く若手革命家で何か凄い事起こす人に見えるのも実に良い。蓋を開けると小物。出世欲と自己実現の場を求める、現場に出る度胸も無く、全部人任せな無責任者。うまくいかないとキレてしまい、周囲にアタリ散らし「僕は悪くないもん」とのたまう虚言癖。


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2.沢田


 妻夫木は情けない若者役やらせたら天下一品。一方でクールな悪役とかジゴロっぽいのとか、完璧超人をやらせても微妙になってしまう。何の作品かは名指ししませんがね。



 かつて私が取材関連の講義で言われた、こんな言葉がある。


「取材をすれば、自分と違う世界の人間について体験を語れると思うだろう。だがそれは違う。いくら取材を重ねても、それは取材という異質の空間で得た、嘘の塊だ。本当の体験ではない。他人のことについて語るとき、どこまで行っても、それはね。嘘なんだよ」



 沢田は、身分を偽ってドヤ街取材とかしていた。所謂取材におけるラポールを、相手をだます事で得ていた。それがそっくり松山によって自分に返される。主人公に対する物語の構成として秀逸だ。真実を伝えるとか言っている傍で、真実に対して自分自身が偽物として接し続けていたのだから、偽物には偽物しか近寄らないのも当然なのだ。梅山の事件を政治事件として発表したがっていた沢田は、社会部(新聞社会面)によって殺人事件として発表される事になり、梅山に裏切り者と罵られる。沢田は社会部にたてつくが、被害者の名前も覚えていない程、現実が見えていなかったのだ。雑誌表紙娘の忽那汐里が沢田に言い放つ『ファイブ・イージー・ピーセス』を引用しての「本当に泣ける人が好き」が全てを表している


 当初大物セクトの一員を語った梅山を、先輩ジャーナリストがすぐに嘘だと見破ったにも関わらず、沢田が梅山を信じたキッカケも、「雨を見たかい(歌詞はベトナム戦争におけるナパーム弾の雨だと講釈を垂れる梅山だが、後に作詞側がバンド内の不仲を表現したものと否定)」と「銀河鉄道の夜」という共通の趣味を持ち、同じような庶民派だと感じたから……。何処かで聞いた話だ。





 ドヤ街潜入取材の時、自分の過失で殺してしまった兎を埋めた後、お金を渡して誠意を見せようとする沢田に「そういう事じゃねえだろ」と呆れるタモツ。映画を見に行っても、同伴の忽那のことばかり見ていて、内容もシーンさえも何も覚えていないのに、「つまらない映画だったね」とか話しちゃう沢田。梅山達が、自衛官を殺害したニュースを聞いて、京大全共闘代表の前園に 「やりましたね!」「行動を起こしたのは事実です!」と嬉々として報告しちゃう沢田。被害者の苗字(正確には親)さえ覚えてなかったりする沢田。


 ラストの居酒屋で、ドヤ街取材対象だった元露店商のタモツと再会する。彼は辛酸なめた時代からなんとか這い上がり、店をもち、家庭を得ていた。そして彼は「嘘の沢田」像に対し、昔馴染みの友達として接する。


「あの頃、なりたいって言っていた記者になれたかい?」 


 彼の言葉は沢田の胸を刺す。


「結局……なれなかったよ」


 タモツは残念だったなと言い返し、続けて


「生きてりゃそれでいいよ」


 沢田はようやく観客に向かって泣くのである



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 梅山と沢田は何がしたかったのか。殺された自衛官は何故死ななければならなかったのか。虚言で自己実現しようとした若者達。それは新左翼のみならず、多くの事象の暗喩だ。嘘で塗り固めた虚像は、結局、何者にも成れない。


 



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記:ヒロト


2012年5月26日土曜日

映画 『奇談』 「先生、最近古代ローマ人に似てるって噂ですよ」「よせやい」





 『奇談』/2005/監督:小松隆志/原作:諸星大二郎「生命の木」/日/2012.5.01記

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 諸星大二郎原作の映像作品と言われて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのはあの爽やかスプラッタ青春オカルトムービー『妖怪ハンター ヒルコ』でないかと思う。原作は妖怪ハンターの一作目である『黒い探求者』に『赤い唇』のテイストなどを盛り込み、およそ稗田礼二郎とは似ても似つかないジュリー演じるズッコケ教授がヘンテコ装置でヒルコを退治しようとする……あらすじだけ書くと原作ブチ壊しの駄映画みたいだがこれが何故か奇妙に出来が良い。原作とは別物だが別物なりの佳作なので未見の人は騙されたと思って一度見てみることをオススメしておく。





 ……と。


 そんなヒルコとは打って変わって『奇談』はなるべく原作の雰囲気に寄せて撮られている。妖怪ハンターシリーズの『生命の木』に、『天神さま』の要素をミックスしたこの映画は、東北の山奥にある隠れキリシタンの村、謎の神隠し、生命と知恵の木の実などのキーワードを散りばめたオカルト映画だ。


 オカルト映画というとジャンル的にホラーの中に分類されがちだが、全てがそういうわけではない。伝奇伝承神話民話などに基づき作られた超常、怪奇現象をテーマにする物語は別段ホラーとしての目的を有しているわけではないからだ。単にホラーとオカルトは食い合わせが良いと言うだけの話で、この映画の場合はホラーとしての要素は殆ど無く、それ故に今どき珍しい純正のオカルト映画なのだ。





 大学院生の佐伯里美には、幼い頃ある一時期の記憶が欠落していた。東北の親戚に預けられた際、一緒に遊んでいた少年新吉と共に神隠しに遭ったとされる時の記憶だ。その失われた記憶を求め、彼女は幼い頃の微かな記憶を頼りにかつて隠れキリシタンの里でもあった渡戸村へ赴き、そこで『妖怪ハンター』などとあだ名される異端の考古学者・稗田礼二郎と出会い、二人は村の謎を追っていく。


 渡戸村には【はなれ】と呼ばれる隔離地区が存在し、そこの住民は全員が七歳程度の知能しか有していないのだという。村で信仰されるカトリックとはまるで異なる信仰形態をもつ【はなれ】の住民の手による聖書をなぞらえた謎の奇行、古来より連綿と続く神隠しの歴史、永遠に死なないとされる「はなれ」の住民達、【はなれ】の重太老人が畏れながら口にする【いんへるの】【ぱらいそ】……。


 調査を進めていく内に、稗田はかつてヨーロッパの宣教師達がこぞって日本に渡来した影に「日本には生命の木が生えている」という伝説が当時まことしやかに流れていたのを思い出す。そして【はなれ】の外れにある洞窟の中で、稗田達は驚愕の【奇蹟】を目の当たりにすることになる。


 見終わってみると、そつなくまとめてあるようで『生命の木』と神隠しネタが思った程マッチしていなかったことに気付く。どうも摺り合わせが弱いというか、元々の原作が短編としてきっちり完結してしまっているので余分な要素を加えるのが難しいのだ。その点、『ヒルコ』の方が原作を重視していない分好き勝手に出来てしまっているとも言えるのだが、『奇談』の雰囲気作りへの努力は評価したい。音楽も川井憲次の偽神的な曲調がぞわりとくる。


 阿部寛の稗田礼二郎に関しては、映画館で初見の際はあまりに厳つすぎて「なんだこのマッシブで古武道やってそうな雰囲気の稗田先生は」と違和感もあったものの、DVDを何度か見直しているうちに気にならなくなった。知的でぶっきらぼうな雰囲気はむしろはまり役だったのかも知れない。特に真相に迫る際の淡々としつつも早口に捲し立てる演技は原作の稗田の特長をよく捉えていると言えるだろう。新作が執筆される際には「先生、最近古代ローマ人に似てるって噂ですよ」「よせやい」といった掛け合いでも欲しいくらいだ。


 諸星大二郎作品の映像化は非常に難しい。今時のエンターティメントとしてはどうしてもパンチに欠ける面は否めない。それでも、原作が持つ「オカルト作品」としての完成度と魅力はそれらを補って余りあるもので、その完全な映像化はファンとしてはどうしても期待してしまう。昨今の音と映像頼りな、ホラーとは趣の異なる、超常怪奇への好奇心を刺激してくれるオカルト映画が少しずつでも作られ続けていくことを願ってやまないのだ。

 ああ、『闇の客人』あたり映画化されないかなぁ……。




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記:みじゅ


2012年5月22日火曜日

映画 『チャイルド・プレイ/チャッキーの種』 自身をぶち壊して得た自由





 『チャイルド・プレイ/チャッキーの種』/2004/監督:ドン・マンシーニ/米/カラー/2012.5.1記

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 チャイルドプレイシリーズはチャッキーの花嫁から明らかなギャグ路線に進んだことはファンの間でも賛否分かれる所ではあるが、個人的には肯定派。三作目までの段階でホラー映画としてのマンネリ感、設定の苦しさが否めないと感じていたところに出てきた四作目の~花嫁は、見事にそこからの脱却に成功した作品である事は明白。





 三作目あたりからすでにコメディ的な部分が強くなっている気がして、でも笑っていいのかどうか微妙な雰囲気があったのですが、四作目はもう奥さんまで登場して躊躇なくコメディとして捉えていいんだという制作者と鑑賞者の双方の意思の一致を感じ、安心して見れるようになりました。


 元々チャイルドプレイと言えば殺人鬼チャールズ・リー・レイが警察の銃弾で瀕死の時、近くにあった人形にブードゥーの秘術で魂を移しなんとかその場をやり過ごし再び人間の体を手に入れるためにアンディ少年を狙う……。というのが前提の話だったのだが、三作目でそれが崩れ始め花嫁に至っては誰の体にも乗り移る事ができるブードゥーのペンダント登場でもはや自ら設定をクラッシュ。真面目さを捨てたその代わりに手に入れた自由がまた気持ちいいのなんの!


 五作目に至ってはついに子供まで登場……。しかもグッドガイ人形がまさかのメイド・イン・ジャパンであることが発覚……。その場面で流れるなんか尺八っぽい音楽。悪ふざけにもほどがある。


 子供の教育方針で夫婦喧嘩したり、チャッキーの花嫁の声を演じるジェニファー・ティリーが本人役で自虐的とも言える展開を見事に演じきっていたり、なんか間違った日本観がちらついたり、ジョン・ウォーターズやブリトニー・スピアーズが殺され、子供のために殺しをやめたいと思っても中々やめられないティファニーが電話でカウンセリングを受けたり、様々なホラー映画のパロディも盛り込んだりと大盤振る舞い。


 花嫁が作ったコメディ路線を更に突き詰めた見事な快作。『え?あのシリーズ五作目なんてあったの?』って扱いを受けているのは映画のマニアック方向性的にしょうがないかなと思う反面、ちょっともったいないなとも思ってしまいます。


 本作の公開時、人気シリーズにも関わらずミニシアター系扱いでわざわざ都内の映画館まで足を運んだ事。パンフレットが制作されていない、物販コーナーにあるグッズが全部前作の「チャッキーの花嫁」のものだったりとプッシュする気の欠片も感じない劇場の雰囲気を今でも鮮明に、さすがにもうちょい推してあげても……! と思ったものです。


 そういえばリメイクと六作目を作るそうですが、リメイクはともかく六作目の方は子供まで出しちゃったのにどうするんだろう? 孫登場? そういや、チャッキーもう新しい体に執着しなくなってきているしホントどうなるんだろう?

 
 なんにせよ観にいきますが。



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記:ツン


2012年5月15日火曜日

映画 『テラ戦士ΨBOY』 プールがやけに深い


※ゲスト記事


『テラ戦士ΨBOY』/1985/監督:石山昭信/日/カラー/2012.5.01記

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 はじめまして、ワイシャーと申します。今回、私がご紹介する映画は菊池桃子主演の『テラ戦士ΨBOY』です。


 数十年前、近くにあった映画館は1スクリーンしかなくチケットを買ってしまえば1日見放題でした。私は映画館で待つよう親に言われました。たぶんゆっくり買い物をしたかったんでしょうね……。そのとき上映していた映画は『テラ戦士ΨBOY』と『七福星』。この頃、ジャッキー・チェンが大人気だった時代で私もファンでした。ただ『七福星』では主役ではなかった(チョイ役)ため見ていてもつまらなかった。その反動のせいか『テラ戦士ΨBOY』のほうが記憶に残るぐらいよかったのです。





 記憶に残っているものは2つあります。


 ひとつは、モモコ(菊池桃子)率いる超能力が使える仲間6人の中にテレポーテーションが使えるトオルは、かなりの確率で目的の場所までテレポートできません。


「絶対変なところに移動するんだよ。……ほらっ、やっぱり


 役立たずのトオル。もうテレポート使うな!と文句を言ってましたが一番応援していたように思います。


 もうひとつは、終盤モモコが敵陣の部屋に入り、ボスであるゴールデン・フレイムが手にしているBOY(?)を部屋にあるちっさいプールにBOYをぽちゃん(プールの水はなにか特殊な液体だったような)。モモコはプールに飛び込みBOYを助けようとするのですが、プールがやけに深いんですね。1フレームで上から下へ潜るシーンが3,4回あったので。そしてこの後プールの水に溶けてしまったBOYはモモコの超能力を使いBOY(プールの水)はすごい勢いで部屋の天井をぶち抜けて宇宙へ帰っていくのです。水がなくなったプールの中で飛び出すBOYを見つめるモモコのシーンですが、プールが思った以上に浅かった!えぇぇぇっっっ!!??あの潜るシーンの回数はおかしくない!?見放題だったので2回目は注意しながら見たのですがやっぱり疑問が残る名シーンでした。


 最近、ネットで調べてみると間違って記憶しているところがちらほらあり、上から下へ潜るシーンではなく奥から手前へ泳ぐシーンが3,4回ありました。ただ感じ方は同じでちっさいプールでそんなに泳ぐ必要があるのか?という疑問です。プールが思った以上に浅かったのは当たってました。


 愚痴っぽくなってますが、本当によかったのです。


 モモコの仲間たちの演技がヘタでも、あらゆる行動に対してツッコミどころ満載でも、ラストのテンポの良さは好きでした。また当時の私に『SFファンタジー』という世界を体感させてくれたのがこの映画なのです。最後にこの映画の主題歌『BOYのテーマ』で締めくくろうと思います。




 ロンリ~ ロッマ~サ~ 出会いはミステリウィィ~~。


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記:ワイシャー