2012年1月30日月曜日

映画 『チャーリー』 重力さえも乗り移ったかのようだ





 『チャーリー』/1992/監督:リチャード・アッテンボロー/米/カラー/2011.01.29記

-----------------------------------------------------------------------

 時代を超えて愛される、そんな喜劇王チャップリンの自伝を下敷きとした映画。山高帽、ドタ靴、ぶっかぶかのズボンにちょび髭、直接的にせよ間接的にせよ、彼の演技を知らない人はいないと思う。そんな彼が如何にして生まれ、
そしてなぜアメリカを去ることとなったのか。そして20年後、彼を追放したアメリカのアカデミー賞特別賞に……


 主演はロバートダウニーJr、今やアメコミヒーローやイギリス紳士、シャーロック・ホームズを務める彼だが、この作品では第65回アカデミー主演男優賞ノミネートそして第46回英国アカデミー賞主演男優賞を受賞している。


 1992年は少し面白い映画事情で、1980年代後半から始まった「バックトゥザフューチャー」「バットマン」、そして「ターミネーター2」などハデなSFX映画が少し収束してきた時代だ。代わりに「JFK」「天使にラブソングを」「ボディーガード」等、演技力演出力に力を入れた作品が非常に多い。この作品も例に漏れず、ハデなCGも特撮もない。ただただ丹念に出演者の演技を計算していく、時折パロディとしてチャップリンの映画の中でも多用された早送り、巻戻しだけが使われる。これぞ正統派のフィルム映画の撮り方なのだ、と言わんばかりの演出。このこだわり方こそが、彼の生涯を描く事ができる唯一の方法だろうと私も思う。





 特にチャップリンの扮装をした時のダウニーは、まるで重力のかかり方すらも、チャップリンが乗り移ったかのようである。願わくばこのキレの時にそのままチャップリンの残したアイデアなどを映像化……は無理だったか


 ただしこの映画、残念でならないことが一つ。脇を固める出演者たち。

ダン・エイクロイド

ミラ・ジョヴォヴィッチ

アンソニー・ホプキンス

そうそうたるメンバーであるにもかかわらず、ほぼ印象に残ることがない。脇役の一人とするには皆惜しいのだが……。



 それだけ「一人の男」を主軸にブレずに作られた映画ということなのだろう。



 私はこのDVDだけでなんどでも笑うことが出来るし、また何度も泣くことが出来るのだ。





-----------------------------------------------------------------------

記:ドーガマン


2012年1月29日日曜日

映画ラジオ 第03回 『ホーボーウィズショットガン』




『ホーボーウィズショットガン』/2011/監督:ジェイソン・アイズナー/加/カラー/2011.12.24収録

-----------------------------------------------------------------------


第03回『ホーボーウィズショットガン
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16826941






破天荒な内容すぎて盛り上がり10分越えちゃったてへぺろ(・ω
ニコニコ動画です



-----------------------------------------------------------------------


BGMはフリー音楽素材 Senses Circuit
http://www.senses-circuit.com/
より、#09:Loop#104をお借りしました。/





-----------------------------------------------------------------------

声:ヒロト ツン

2012年1月28日土曜日

映画 『魔女』 映画が紡ぐ悪夢的絵画





 『魔女』/1922/監督:ベンヤミン・クリステンセン/瑞/モノクロ/2012.1.27記

-----------------------------------------------------------------------

 最も初期に作られたホラーと呼ばれるが、内容はホラーと言うよりは魔女の歴史を図版や再現ドラマによって説明していくといったドキュメンタリータッチの強い作品である。


 そういったわけでストーリーらしきものは魔女の生活や中世の魔女裁判、魔女文化の考察と言ったものがオムニバス的に入るくらいのものである。本作の魅力は画面に展開される奇怪極まりない美術にあり、再現ドラマにおいて登場
する悪魔達は、特殊メイクを施した役者の演技によるものの他、操り人形や人形アニメーションと思われるミニチュアによる表現なども駆使しており、それらの初期映画ならではのぎこちない動きがかえって禍々しくも幻想的な雰囲気を
醸しだしてくれている。





 また役者が演じる悪魔のメイクも時代的な制約から、かなり粗い作りで更にそういう人選をわざと行ったのかと思わせるほど腹部がぽっこりと出たものばかりが扮しており、あたかも中世の絵画に描かれた悪魔達がそのまま這い出てきたかのような醜悪さで現代の映画とはまた違ったリアリティを生み出しているのである。セットや他の演者にもその妙なリアリティは現れていて、とにかくその表現が汚らしいのだ。


 太り肥えた司祭を誘惑するお世辞にも美人とは言いがたい中年女、ボロボロの衣装を纏った老いた魔女、素手で口元をベタベタにしながらスープを貪る物乞いの老女…とにかく生理的な嫌悪を覚える表現に満ちている。 そうかと思えばシルエットを多用した幻想的で美しいシーンも随所に散りばめられており、映画全体の品格はむしろ高い映画と感じるほどである。


 この醜悪かつファンタジックな映像をどこかで感じたことがあるなと思い調べたところ、クリステンセンは後の名匠、カール・ドライヤーに多大な影響を与えたと知り、納得がいった。 登場人物の生々しい醜悪さとそこに漂う幻想的な雰囲気はドライヤーの作品『裁かるゝジャンヌ』『ヴァンパイア』で感じたものと非常によく似ていたのである。


 『魔女』の放つ観る者に悪夢へ迷い込んだような戸惑いを覚えさせる不可思議な魅力はしっかりと後の名作に引き継がれていたのである。 余談だがそれを前提に、『魔女』とドライヤーの両作品を見比べると明らかにリスペクトしたと思われるシーンが見受けられ、そういった発見も含めて作品を再度楽しむことができる。



*『魔女』原題:Haxanと同名曲「Haxan」のArcane Malevolenceによる映画引用PV


-----------------------------------------------------------------------

記:るん


2012年1月26日木曜日

映画 『片腕マシンガール』 ファンタスティック・クレイジー・ジャパン!!





 『片腕マシンガール』/2008/監督:井口昇/米/カラー/2011.01.26記

-----------------------------------------------------------------------

 弟を服部半蔵の末裔のヤクザの息子率いるいじめグループに殺された女子高生アミが、弟の復讐を始めるが、復讐に失敗し捕われてしまう。
 左腕を切断されてしまいながらも、殺される前になんとか逃げ出す事に成功。
同じくいじめグループに息子を殺された夫婦の助力によって、なくした左手の替わりにマシンガンを装着し再び弟の復讐のためにアミは立ち向かう!

 シンプルな復讐劇。それも美少女がセーラー服で片腕がマシンガン・・・いかにも趣味丸出しなB級アイドル映画である。
ぼんくら映画好きな自分としてはこの時点でそそられる要素の塊のなのだが、他のこの手の映画との決定的な違いは主人公のアミ演ずる八代みなせの魅力にある。鬼気迫る表情、誰かを殺す度に啖呵を切るところなど本当にカッコよく、とてもこの映画が初の演技であるとは思えない迫力がある。目力もあるし。

 主人公は腕にマシンガンを装着していて、敵は服部半蔵の末裔のヤクザという設定の時点で悪ふざけとしか思えないし、他にも腕をてんぷらにされるシーンや、中学生忍者隊(ジャージ姿)やら空飛ぶギロチンやらドリルブラやらも登場するしどこかうそ臭い日本感と全編に渡って悪趣味で過剰でチープな人体破壊と血しぶきの嵐で悪ふざけのすぎる内容だけれども、主役の演技の説得力のおかげでチープ感を悪ふざけでごまかすだけで終わらないカオスな笑いの雰囲気を作り出していて見ていてとても気持ちいい。





 この手の安っぽさを笑いに変えるためには、どこか一箇所でも引き締まった要素がないとただの学芸会になってしまうのだが、この映画ではそれが見事主役によって支えられていて安心して最後まで映画を楽しめることができた。


 個人的にはこういったグラインドハウス的な作りの映画としてはここ数年で一番好きな映画かもしれない。



 そんなわけで井口昇監督の作品には最近とても注目しているツンなのであった。

 グラインドハウス的なチープかつバイオレンスな物がお好きな方なら是非。このタイトルで片腕ドラゴンがすぐ思いつく人も見て損なし。

 あとは三白眼美少女に睨まれたい人にもオススメ。

 ちなみに日本で作られた映画ですが、アメリカの映画会社が出資していて日本での公開予定も当初はなかったようで、この映画はアメリカ映画に入るそうです。へぇ~。




-----------------------------------------------------------------------

記:ツン

2012年1月24日火曜日

映画 『ルルドの泉で』 奇跡があろうと、日常という孤独は変らない





 『ルルドの泉で』/2009/監督:ジェシカ・ハウスナー/墺・仏・独/カラー/2011.01.24記

-----------------------------------------------------------------------

 ルルドへようこそ。


 キリスト教の聖地のひとつとされるルルド。フランスとスペイン国境ピレネー山脈に位置する小さな街だ。かつて聖母マリアが降臨し、奇跡を起こす水が沸く泉があるとされ、毎年数百万人が巡礼に来ている。映画「ルルドの泉」は、そんな聖地ルルド、ないし観光地ルルドをくまなく体験できる観光型映画ともいえる。


 というのも、この手の映画にありがちな宗教批判や、逆に奇跡の賛美。或いはつかいやすい題材をつかっての感動のストーリーを仕立てあげる、という事がほとんど意識されない。ルルドという題材事態が既に面白い題材なのだといわんばかりに、淡々とルルドという観光地での出来事が描かれる。まるでルルド紹介のドキュメンタリーふう映画だ。





 勿論、フィクションの劇映画である。パンフレットや、トレーラーを見る限り、とある信心深くない下半身不随の女性が、半信半疑でルルド観光に訪れたところ、なんと自分の脚が動くようになってしまった。そんな彼女に気がある男。子供を治したい母親の嫉妬や、信仰厚い老婆の偽善行為。冷やかしの客。やる気のない自分探しのシスター(実にビッチである)。業務的に達観している役人や神父。逆に信じていないからこそ冷徹なまでに善きシスターを演じられる女性。彼女らを交えサスペンスタッチで描かれる……といった具合に紹介されている。


 だが、実際はそこまで劇映画らしく各々が干渉しあうサスペンスが展開されるような事は、この映画には起こらない。それもその筈で、劇中に集まった登場人物はたまたま観光旅行に集まった役人と神父と介護のシスターに、客なのである。そんな集まりが、いくら奇跡が起ころうと互いに深く干渉しあうことなどない。確かに登場人物達が話題にする中心にあるのは主人公たる奇跡が起きた女性だ。だが、数人のグループ同士が彼女を話題に挙げたり、僻みを言ったりすることはあっても、実際に彼女が中心に入ることはない。上辺だけの「おめでとう」の言葉が彼女にかけられるだけ。


 劇中開始時から、以前の別の旅行で見知ったという男に恋心を抱く主人公。彼女は足がなおったという事実から、自信を持ち、積極的になりはじめる。だが、肝心の男は、優しい態度は示しても常にどこか距離を置いている。告白に対して男は「怖いんだ」などとのたまう。あげく、劇中ラスト間際、彼女は周囲に開いてもらった自分を祝ってくれるパーティの途中で倒れる。彼女はすぐに立ち上がったが、周りは「やっぱりね」といった空気が立ち込める。男は当然のごとく彼女から身を引く。何故なら、旅行で出会っただけの関係。奇跡が起きような何が起きようが、それと男の気持ちの動きは別物だからだ。その恋の結末に連動するようにして、彼女は気づいてしまったのか。もしかしたら、本当にたまたま立ちくらみがしただけなのかもしれないのに、用意された車いすに再び座り込んでしまう。そのまま映画は終わる。





 劇中には、この手の抑制の利いたストーリーには珍しく、濃いキャラクターを持つ登場人物が多い。


 神父に他人のためになる信仰を行えば魂が救われ奇跡が起きると言われたので、とにかく主人公の介護に徹する……というか、主人公に奇跡が起きるように他人を出し抜いて車いすを押す偽善行為の老婆。実際に主人公が歩けるようになったら、ドヤ顔で自分の手柄のように振る舞う。このドヤ顔が実によくできたドヤ顔である。


 一方で主人公の介護を担当している新人シスター。冒頭からやる気がない。目が明後日の方向だし、表情がぶっきらぼう。お眠りの前のお祈りも適当。あげく、担当を勝手に離れて、役人のイケメンに色目をつかったり仕事中にデートしたり、やりたい放題。就職理由も、新しい自分が見つかると思ったのときたものだ。実にバイトシスターといった体で、コンビニで働く女子高生か、正月の巫女さんバイトを思い出す。実にいいキャラをしている。


 前述のとおり、ストーリー重視であれば、そのストーリーのために必要なだけ登場人物が配置され、その動きも抑制されるため、次第にキャラクター性は薄れていくものだ。かといってキャラクターの個性同士が交錯するドラマチックな展開であれば、不自然さが目立ち始め、劇が強調される。ルルドの泉では、個々では個性的なキャラクターが登場しても、それら登場人物の交錯の仕方が実に絶妙なバランスで、「ルルド観光旅行の一幕を映しました」といった体裁が
実に違和感なく描写されている。誰もが、個性的なキャラクターを持っているが、全ては日常の延長線上として描写される。そして日常で他人に深く干渉しあう事など滅多にない。ドキュメンタリーよりもドキュメンタリーのような映画。





 主人公は自分の脚で立てるようになり、変わり始めた自分と世界から、奇跡を信じたくなった。だが、それらが一時のものであると感じたとき、奇跡も終わりを告げたのだ。ハネケのような乾ききった冷徹な描写とは、また違った冷徹さ。

奇跡があろうと、なかろうと、所詮は日常の一幕なのだ。


-----------------------------------------------------------------------

記:ヒロト

2012年1月22日日曜日

映画 『ローマの休日』 二人の少女の日常





 『ローマの休日』/1953/監督:ウィリアム・ワイラー/米/モノクロ/2012.1.21記

-----------------------------------------------------------------------

 『嵐ヶ丘』や『ベン・ハー』などの監督として非常に高い評価を受けた完璧主義者ウィリアム・ワイラーの映画界における最大の功績は何かと考えた時、私はこう答えるだろう。オードリー・ヘップバーンを見出したことだと。

 そのヘップバーンが主演を務めたこの作品は、内容は言ってしまえばチープなラブロマンスでしかない。激務に追われヒスを起こしてしまうほど現状に疲れた某国王女と、ひょんなことから彼女に永遠の都ローマを案内することになったスクープを狙う新聞記者とのたった一日の儚い恋・・・なんとも「よくある話」だが、現代においても「よくある話」なのはそれだけ大衆に愛される内容なのだということだろう。





 私がこの映画を初めて観たのは14歳の時だった。それまでヘップバーンの名を耳にしたことはあっても実際に出演作を観ることがなかった私は衝撃を受ける。物語冒頭「あぁ、綺麗な人だな」程度だった彼女への印象が中盤に一変する。そう、「真実の口」のシーンだ。


 あのシーンは、王女と恋に落ちる記者を演じるグレゴリー・ペックとワイラーがヘップバーンの実力を引き出すために仕掛けたいわばドッキリだったことはよく知られているが、その時のあまりにも可愛らしい等身大のリアクションは、後に世界中の男性を虜にする彼女にとって最初の魅了の魔法だったのかも知れない。事実、あのシーンが彼女の人気を鰻登りにさせたと言っても過言ではないだろう。

 真実の口を物珍しそうに眺める王女に対し、お茶目ないたずらを実行する記者。それは「非日常的日常」から「日常的非日常」へと迷い込んだ「二人の少女」に向けた、少しばかり意地悪で、けれどもどこか優しい、少女を見守る大人からのメッセージだったのではないだろうか。


 王女は「非日常的日常」へと戻り、一日限りの夢は写真という思い出に残るばかり。しかしヘップバーンはこの映画から一躍トップスターとして「日常的非日常」を生き続けることになった。色褪せることのない、終わらない夢として。




-----------------------------------------------------------------------

記:うづき

2012年1月18日水曜日

映画 『灰とダイヤモンド』 スピリッツに火を灯し、赤く染まるシーツを灰に



※ネタバレ注意

『灰とダイヤモンド』/1958/監督:アンジェイ・ワイダ/波/モノクロ/2012.1.18記

-----------------------------------------------------------------------

男が詠む。「永遠の勝利の暁に、灰の底深く燦然たるダイヤモンドの残らんことを」
女が問う。「……私たちは何?」
男が返す。「君か?……君はダイヤモンドさ」


 ナチス占領下のポーランドにあって、国軍はワルシャワ蜂起を持って統治者ドイツと対峙する。だが、ソ連の働きかけにより勃発したポーランドの反抗行為は失敗に終わる。やがてソ連がナチスを打破し、ポーランドを解放した。だが、今度はソ連が思想と武力によってポーランドを支配しようとしている。ワルシャワ蜂起に参加した若者たちは自主独立を訴えて武力に頼る。戦争は終わった。しかし、彼らは戦いをやめられなかった。


 物語の主軸になるのはマチェクという男。主人公という言い方をしないのは、当時のポーランド政府がソ連型共産主義下にあるという事が理由である。彼はかつてワルシャワ蜂起に参加し、今は反共ゲリラの暗殺者なのだから。
 マチェクは共産党幹部を暗殺することを命じられる。自主独立の弊害となるソ連の手先を。標的はかつての同志シチュウカであった。マチェクは、こんな人生を終わりにしたかった。


 この映画には印象的な場面がいくつかあり、どれもが非常にクールであり、そしてせつない。


 マチェクらは共産党幹部の暗殺を実行する。チャペルに縋りつくように息絶える対象の男。しかし彼はマチェクらの標的とは別人だった。誤認し、関係のない人間を殺してしまったのだ。


 理想に燃えた時代を経て、流されるままに殺しを続けてきたその場主義のマチェク。誤認殺人した夜。宴会の行われるホテルに泊まった標的を殺すことを命じられているが、その心には迷いがある。浮かれ騒ぐ客たちを尻目に、かつて死んだ仲間たちと同じ数のスピリッツに火を灯し、相棒と杯を交わす





 迷うマチェクはひとりの女と出会う。彼は彼女との一夜の関係で、暗殺業とおさらばし、彼女とまっとうな人生を生きることを誓う。その場主義で女好きなマチェクらしい心境の変化ともいえる。一方で、泥沼にはまっている自分を自覚していた彼が、こんな人生から抜け出す唯一の機会、光明だと感じたのかもしれない。折しも打ち捨てられた廃墟の教会で彼は誓ったのだ。しかしその運命は暗雲が立ち込めることが定められていた。そこは、逆さまに吊るされた十字架が張付けられた、誤殺した男の死体を隠すために選んだ場所なのだから


 夜明け前。標的となる共産党幹部に、生き別れた息子が見つかり、そして反政府主義者として逮捕されたことが知らされる。共産党幹部はパーティを抜け出し、息子に会いに向かう。マチェクは彼女と翌朝ふたりで街を出ることを誓い、この仕事を最後にすると決めていた。一人で外出した標的を追い、そして銃声が鳴る。標的は、よろよろとマチェクの元へ歩み寄る。そして、マチェクを抱きしめるようにして息絶える。思わず抱きかかえるマチェク。夜明け前の空に、無数の花火が打ち上げられる。天を仰ぐマチェク。標的にとってマチェクは、自分を殺しに来た息子にでも見えたのだろうか。抱きしめ返したマチェクは何を思ったのだろうか。震えるマチェクは、その場から逃げ出す。雨上がりの水面に映る、ポーランド解放を記念する花火が鳴り響いていた


 早朝。保安隊に見つかり、追われるマチェク。再び鳴り響く銃声。もがくようにして逃げ込んだ一面に干された純白のシーツの森は、赤く染まった。ひとり駅で待つ女。よろよろと倒れこむマチェク。そこは郊外の灰積もるゴミ捨て場だった。鳥の群れが飛び去る。現れない男。女はひとり、列車に乗り込んだ。





 アメリカンニューシネマに遡ること20年。ファシズムへの勝利に酔う、未だ西側とも、東側とも、焦点の定まらない未来に揺れ惑う、混沌としたポーランドの一夜。



男が詠む。「永遠の勝利の暁に、灰の底深く燦然たるダイヤモンドの残らんことを」
女が問う。「……私たちは何?」
男が返す。「君か?……君はダイヤモンドさ」


-----------------------------------------------------------------------

記:ヒロト

2012年1月15日日曜日

映画ラジオ 第02回 『ブリューゲルの動く絵』




『ブリューゲルの動く絵』/2011/監督:レフ・マイェフスキ/波・瑞/カラー/2011.12.24収録

-----------------------------------------------------------------------


第02回『ブリューゲルの動く絵
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16696893






ヒロト&ツンによる映画雑談ラジオ
※この動画はブリューゲル個人の名誉や人格を否定する内容ではありません。ブリューゲル本人はね。。
ニコニコ動画です



-----------------------------------------------------------------------


BGMはフリー音楽素材 Senses Circuit
http://www.senses-circuit.com/
より、#09:Loop#104をお借りしました。/





-----------------------------------------------------------------------


2012年1月14日土曜日

映画 『パンドラの箱』 検閲すら魅了した運命の女





『パンドラの箱』/1929/監督:ゲオルク・ヴィルヘルム・ハープスト/独/モノクロ/2012.1.14記

-----------------------------------------------------------------------

 運命の女・ルル。

 
 彼女の無邪気で妖しげな魅力は無意識のうちに関わるものを彼女の虜にし、そしてその者を、また彼女自身をも破滅に追い込んでいく。 全てを失い、最後に身をおいたロンドンで街娼とまで成り果てた彼女が始めて客として引き入れ、どこか惹かれるものを感じた相手、それは当時最もロンドンを恐怖に陥れていたあの…


 本作はサイレント映画最末期にヴァイマル体制下の不況にあえぐドイツで製作された。 ヒロイン演じるは監督をして「私のルルを見つけた」とまで言わしめたハリウッド女優ルイーズ・ブルックス。彼はこの映画のためにわざわざドイツに招待した。もし、彼女に出会わなければルル役はグレタ・ガルボが演じることとなっていたというからこれは驚きの大抜擢だったわけである。それ程に言われるだけあって彼女はまさに『狂乱の1920年代』を体現するかのように当時の映画的モラルからすれば確実に逸脱した奔放な性表現を大胆に演じており、検閲の厳しかったハリウッド映画が描ききれなかった当時の性も含めた大衆文化を画面から生々しく感じさせることに成功している。






 また映画の舞台にもそれは言え、上流階級の祝祭や失業者で溢れかえる盛り場などで描かれる人々は、貧富の差はあるにしろ国内情勢への不満からか、一刻の宴に現実を忘れんとばかりにとにかく享楽的に楽しみ、タバコの煙で会場が霞む中酒に溺れ騒ぎ立てる姿が映し出されているのが印象的であった。当時のドイツ映画の多くに言えることではあるものの、特にヴァイマルからナチス台頭までの期間の生活感や価値観がこの映画では強く画面から伝わってくると感じるのは私だけではないはずだ。


 この映画の大きな魅力の一つとして、ヒロインを演じたルイーズの多彩なコスプレの数々がある。監督の思いの入れが否応なしに伝わってくるほど様々な衣装を着こなしており、これまたブルックの美しさと当時のファッションを楽しむことができ、映画のアクセント作りに華を添えている。


 ルイーズはこの混沌渦巻くドイツの街をいたく気に入り、撮影中何度も夜の街へ遊びに出ており、撮影終了後も活躍の場をここに置くことになる。 また、当時の検閲機関はこの作品以後、ブルックス出演作品への規制強化を取り決めたと言われている。 運命の女・ルルは演じた者の人生にすら大きな影響を与えることとなったのだ。




-----------------------------------------------------------------------

記:御花畑るん


2012年1月13日金曜日

映画 『アメリカの友人』 威信が崩れた時代、カウボーイハットの孤独


※ネタバレ

『アメリカの友人』/1977/監督:ヴィム・ヴェンダース/独・仏/カラー/2012.1.13記

-----------------------------------------------------------------------

 いま、「アメリカの友人」を観る。


 デニス・ホッパー演じるカウボーイハットの男リプリーは、常に孤独を感じていた。家族もいない、一匹狼の犯罪者。

 死亡した事になっている画家本人に、彼自身の贋作を作らせ、絵画の投機を行うバイヤーのリプリー。常に彼はカウボーイハットを被っていた。ある日、知り合いのミノという男から、マフィア絡みの男を殺しても足のつかない者を探していると相談されところ、過去に悪態をつかされた男を利用することを提案する。白血病を患う額縁職人ヨナタンであった。


 違法な絵画のバイヤーであるカウボーイハットの男と額縁職人はこうして再会する事になる。


 段取りも用意し、素人ならマフィアに足がつかない。ミノはヨナタンを嘘の診断書で死期が近いと信じさせ、残される家族の為に治療費とひきかえに殺人を依頼する。ヨナタンの素行調査と監視も含めて接触し、偽りの友情を演じるカウボーイハットの男。だがリプリーは接触を繰り返すうちに、ヨナタンに偽りではない友情を感じるようになる。
 家族のなかにあり、家族のために必死になるヨナタンに、家族を知らず、孤独な境遇に育ってきたリプリーはヨナタンという男に、次第に嫉妬と憧憬を感じるようになったのだ。


 遂には捨て駒同然の危険な第二の殺人依頼実行の際、本来なら失敗してその場で死ぬ運命にあったヨナタンを、彼のことが心配になったリプリーは助けてしまう。はた目から見れば理解しがたい行動だ。悪口を言われたくらいで利用することを決めた癖に、その男に友情を感じるようになり、ましては肩入れし運命を共有しようなどと。
 カウボーイハットの男自身、自分が何をしているのかわかっていないような顔を浮かべる。
 彼らは追手を辛くも退け、ヨナタンら家族と共に逃げることを決意し、追手の死体を浜辺で処理するリプリー。





 だがヨナタンは妻と共に車で逃げさり、リプリーを置き去りにする。
 呆然と浜辺に立ち尽くすカウボーイハットの男。
 第二の殺人の際に助けた時から、彼はカウボーイハットを被っていない。


 夫の最近の怪しい行動から心配していた妻から偽の診断書が露呈したことで、ヨナタンは全てを悟ったのであろう。
乾いた笑いをヨナタンは浮かべ、彼らを乗せた車は蛇行する。制御を失った車体は堤防から海へ突き抜けようとする。
寸前に妻がサイドブレーキをかけた時には、停まった車内でヨナタンは既に永遠の眠りについていた。

 
 偽りの友情は終わり、カウボーイハットの男は孤独になった。


 不遇の時期のデニス・ホッパー。彼は後年悪役が多く、目が常にギラギラしてキテる奴のイメージがあった。然し彼の目の演技にはどこかいつも寂しさがつきまとう。純粋な悪党役でも、この目がキャラクターに奥深さを与えている。この映画で彼は暖かさに飢えた孤独な男を演じている。デニス・ホッパーの目の奥に潜むカウボーイハットの男が吐露しているかの如く、だ。アメリカの威信が崩れた時代の映画である。



 カウボーイハットの男の孤独。



 「アメリカの友人」との友情は、偽りのまま、終わった。


 *トリビュートビデオ

-----------------------------------------------------------------------

執筆:ヒロト


2012年1月11日水曜日

映画 『悪魔のえじき』 これがドイツのゆるグロムービー!


※グロ注意

『悪魔のえじき ブルータル・デビル・プロジェクト』/1999/監督:アンドレアス・シュナーズ/独/カラー/2012.1.10記

-----------------------------------------------------------------------

 ドイツの最低低俗鬼畜馬鹿グロ映画は天下一品だ!と思わせるアンドレアス・シュナーズ監督の自主制作映画。

 “1999年7月、3人の男たちが孤島に上陸したまま行方不明になった。その後、孤島の様子を撮影したフィルムが漂流してるのが見つかった。この映画は、傷つき、一部失われたフィルムを修復、再編集したものである。尚、当局はこのフィルムを手の込んだニセモノときめつけ、3人の男たちの捜査を打ち切った。彼らの消息はいまだに不明である。また、孤島の位置も明らかにされていない・・・。”

 このテロップから始まる本作。「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」的な映画なのかと思わせるような文面だが、実は作品自体は全くそういった意図で作られていなかったりする。これは日本の配給会社が勝手に付け足したものだそうだ。何せ開始早々登場人物が引いたアングルで全員映っているし、見事にカット割もされている。場面転換もよくするし。こんな開始数秒でバレる嘘を堂々とつくというこのズッコケ体験は中々他の映画では味わえない。僕はこれを日独コラボレーションによって生み出された素晴らしいユルさとして評価したい。

 船のトラブルで孤島に漂着した男達はしょっぼいブリキの仮面をつけた集団に捕まってしまう。しかも逆らった一人は早々に殺される。彼らはマイスター親子を中心とした武装カルト教団。よそ者や反逆者は容赦がなく殺され、死体はドクター・ジニアスというマッド・サイエンティストの実験材料として弄ばれている。残りの二人と、もう一人処刑されるはずだった元教団の中国人の3人は一旦開放され、狩りの対象として面白半分にこの教団に追い掛け回されることになる。


 しかしこの3人は逃げるのではなく、組織と戦う事を決意する・・・
 ストーリーは大体こんな感じである。はっきり言ってどうでもいい。


 とにかく残虐ゴア描写の嵐。鉈で手や首が吹っ飛ぶのはもちろん、先が鉤状になっている鎖で肉やら脊椎やらを引っこ抜かれる。人体実験で腸はぐちゃぐちゃ弄られるし、戦闘中、攻撃は基本貫通するし血の量も申し分ない。ストーリー展開とあまり関係なくとにかく人体破壊映像がこれでもかと続く。これらをかなりしっかりとカメラに映している。じっくりとグロ部分を見せる映画は個人的にとても良い。(たとえチープでも)

 話が進んでくると、ドクター・ジニアスによって作られたゾンビ軍団や、忍者まで出てきてスピード感皆無のユルい、でも異様にグロい格闘戦が延々と続く。ジェイソンもどきが出るは、空飛ぶギロチンまで出るはの大盤振る舞い。ちなみに船で漂流してきた最初の2人は途中であっさり殺され、もう一人の中国人まで途中で殺されてしまい、最終的にゾンビ戦の途中で唐突に現れた中国人の仲間二人が話を収めるというフリーダムっぷりに開いた口が塞がらない。

 この通りどうしょうもない映画で、個人的には大好きだが普通の人にはとても薦めにくい映画でもある。だがこの映画からは制作者達の確かな愛というか、作品に全力投球している感があり、商業映画にはない力強さがあるのもまた
事実・・・だと思う。


 切り株映画ファン、ゲテモノスキーな方は見て損のない一本。


 ちなみに余談ではあるが、日本、イタリア、ドイツはどこも良いスプラッター映画を出している国で、僕は勝手に
『ゴアの日独伊三国同盟』と呼んでいたりする。ドイツって結構暴力表現にうるさい国だって聞いてるんだけど、
なのになんか妙にがんばっちゃうクリエイターが後を絶たないですよね。
 かえってレジスタンス精神がむくむくと沸き起こるのだろうか?




-----------------------------------------------------------------------

執筆:ツン
 絵:ツン

2012年1月9日月曜日

映画 『アンダーグラウンド』 眠ることなど許されない




『アンダーグラウンド』/1995/監督:エミール・クストリッツァ/仏・独・洪/カラー/2012.1.9記

-----------------------------------------------------------------------

 ラジオ収録旅行の最終日に見たので放送収録はされていない。だが旅行中ではもっとも興奮させた映画であった。

 それはユーゴスラヴィア紛争まっただ中に作られ、その政治的姿勢を問われ物議を醸し、パルムドールをとった過去の映画であった。正直、堅苦しい題材だし3時間もあるので、旅行最終日ということもあり眠ってしまわないか不安だった。しかしそれは杞憂に終わる。予想外に開幕から爆音で吹き荒れるジプシーミュージック。一度聴いたら耳から離れない管楽器の狂演。酒を浴び、踊り狂うキャラクター達。劇中で割られた酒瓶の数はいったい何本だったのだろうか。
大抵は自分の頭で割っている。眠る暇など与えない、眠ることを許さない強烈なインパクト。


 重い題材だが、狂騒に満ちたコメディ映画。


 ユーゴスラヴィア出身の監督の、ユーゴスラヴィア出自が大半を占める役者による、ユーゴスラヴィア映画。結果的に映画製作から約10年後、名実ともにその名を冠する国家は消滅することになる。だが国家とは不思議なもので、政治上消滅したとしても、その土地、そこに生きた人々は今も生きている。

 紛争中につくられた当作品は、失われたかつてのユーゴスラヴィアを懐かしむような描写から、独立された諸国家に対する大セルビア的思想だとして批判された。だがその時代に生きた人々にとって、過去の国はそんな機械的に割り切れるものなのだろうか。事実として民族・文化の違いは存在している。だが当時はそんな連中が互いに酒を交わして楽しみ、諍いもあり、そうして暮らしていたという事実もある。政治的な理由、民族自立という概念のために、嫌いだった者も、好きだった者へも互いに銃を向けなくてはならなくなった紛争時代。

 民族自治といえば聞こえはいいが、かつてそのような寄せ集めで国境をひいたのはなんだったのか、帝政下を脱却すれば、王政で寄り合い所帯、さらに欧州列強の影響で民主化、今度はファシズム、さらには社会主義下で西側とソ連との狭間に揺れ、冷戦終了に伴い東側・西側体制が有名無実化した結果に民族自治運動が高まり、寄り合い所帯は瓦解した。いつだって誰がはじめたのか解らず、一握りの人間の都合で左右されてきた。


 地下に生きた人々は、記憶から消し、忘れようとした人々だ。


 酒を浴び、暴れまわり、ブラスバンドと踊り狂い、瓶を自分の頭で割る。
 笑い叫び続けたコメディだ。


――この物語に終わりはない。


眠ることなど許されないのだ。




-----------------------------------------------------------------------

執筆:ヒロト


2012年1月8日日曜日

映画ラジオ 第01回 『宇宙人ポール』




『宇宙人ポール』/2011/監督:グレッグ・モットーラ/英・米/カラー/2011.12.24収録

-----------------------------------------------------------------------


第01回『宇宙人ポール
http://www.nicovideo.jp/watch/sm16645376





ヒロト&ツンによる映画雑談ラジオ
初回からエイリアンやらアメリカンニューシネマやら話がそれる。
ニコニコ動画です



-----------------------------------------------------------------------


BGMはフリー音楽素材 Senses Circuit
http://www.senses-circuit.com/
より、#09:Loop#104をお借りしました。/





-----------------------------------------------------------------------


2012年1月6日金曜日

映画 『サウンド・オブ・ミュージック』 歌の持つ力



『サウンド・オブ・ミュージック』/1965/監督:ロバート・ワイズ/米/カラー/2012.1.5執筆

-----------------------------------------------------------------------

 「ドはドーナツのド」というフレーズに聞き覚えのない日本人はそう多くはいないだろう。このフレーズから始まる「ドレミの歌」は音名を覚える歌として非常に有名であるが、出典が映画だということはあまり知られていない。

 破天荒な修道女マリアと、彼女が家庭教師を引き受けた問題だらけの名門トラップ一家との間に生まれた家族愛を描いたこの『サウンド・オブ・ミュージック』は同名のミュージカルを基にした作品で、今なお世界中で愛されるミュージカル映画の金字塔といえる。

 ミュージカル映画というからには当然劇中では歌の場面が多いが、原作の『トラップ・ファミリー合唱団物語』という題名からもわかる通り、歌そのものがストーリーの中で重要なファクターとなっている。たとえばマリアが雷に怯える子供達の恐怖を紛らわすため歌を歌い子供達の塞ぎこんだ心を開放したり、歌によってそれまでコミュニケーションの方法がわからなかった家族の心を一つにしたり、あるいは終盤では歌うことが合唱団として名が広まった家族を窮地から救う手立てとなる。

 そういった内容のためか、この映画からは歌の持つ力が伝わってくる。それは、物語の主人公であり原作の著者でもあるマリア・フォン・トラップの持っていた「希望の力」に他ならない。物語の背景に浮かぶのは第二次世界大戦の最中ナチスドイツの台頭によって変化していくオーストリアの情勢。それらに翻弄され、祖国を失いながらも自由と矜持を胸に亡命する一家。彼らにとって歌とは至上の喜びであり、家族の絆であり、生きる糧でもあり、そして誇りなのだろう。

 あえてコメディチックな脚色を施し、終始トラップ一家の明るさを損なわないような演出にしたのは、激動の時代に生きる人々の心に根付いた暗い感情を消し去るべく希望を歌っていった彼らの思いを汲んでの事かも知れない。エンディングに流れる「Climb Ev’ry Mountain(すべての山に登れ)」がその証ではないだろうか。

 余談ではあるが、この映画は学生時代ミュージカルに打ち込んでいた私が人生で初めて観たミュージカル映画であると同時に初めて舞台で演じた作品でもある。当時は観る側だった私がいつの間にか舞台に立ち歌っていたのは、きっとこの映画が「My Favorite Things(私のお気に入り)」だったからだろう。




-----------------------------------------------------------------------

執筆:うづき

2012年1月3日火曜日

映画 『白いリボン』 この有刺鉄線を引いたのは誰だ!



『白いリボン』/2009/監督:ミヒャエル・ハネケ/墺・独・仏・伊/モノクロ/2011.1執筆

-----------------------------------------------------------------------

 オーストリアの鬼才、ミヒャエル・ハネケ。
 『ファニー・ゲーム』位しか見た事がなく、友達のまた聞きで評判を知ったくらいの前知識。
 ただ、『ファニー・ゲーム』での、エンターティメントとしての暴力へのアンチテーゼを呈した姿勢、過去の作品群に
『カフカの城』や、何処にもない大陸をもとめるという意味を込めた『セブン・コンチネント』など……前知識を仕入れたので、なんとなく読みとれたかも。というのも、この『白いリボン』には一般的な映画的カタルシスは無い。
 第1次世界大戦前夜、プロテスタント、オーストリアの歴史。
 これらにまつわる問題をある程度理解していないと、サッパリになってしまう。実際途中はかなりサッパリだった。
 物語はプロテスタントの厳格な規律に守られたオーストリアの片田舎が舞台。
 しかし、少しずつ変化が忍び寄っていた。大人達は子供達が、
 自分達と価値観の違う化物に成長しつつある事に気付いている。

 
 「誠実に、質素たれ」

 
 もはやプロテスタント特有の価値観は子供達を納得させられるほどのちからを既に持たない。
 大人達側自身が、自らの欺瞞に崩れつつあるからだ。
 子供達の内に何が育っているのかに気づかないふりを続け、とりあえずの安心を得ている。
 村に起きた厄災は、その原因を適当な(おあつらえ向きの)人物に押しつける事で平穏を取り戻したと満足する。
 この映画では何も解決しない。事件が起きても、その全貌を明かす事もない。
 なにもしないまま、映画は終わりを告げる。
 それこそが、その現実を見ない姿勢が、やがてドイツ(圏)における既存の価値観崩壊と、信頼欠如、そして第三帝国の台頭を許すことになる。当時のオーストリア・ドイツに蔓延する「不安」「倦怠感」「忍び寄る変化」「目を背ける事」。そうした「無責任による価値の崩壊」を、ひとつの村という縮図で表現したのだと感じた。簡単に類似例を挙げるなら、カフカのような 当時の世相における虚無と不安を表現したといえる。何故、今更そんなものを題材にしたのか。


 「無責任による価値の崩壊」


 それは今まさに世界で起きている事なのではないかと、ハネケは感じたのではないだろうか。




-----------------------------------------------------------------------
(追記:2012.1)公開時期より世相はまさに無責任のしっぺ返しをくらっているようだ。
まさに舞台のユーロは瓦解状態。日本限定でも色々該当する。白いリボンは本当に純潔の証か。


執筆:ヒロト

【案内】シネマノスタルジアについて



ようこそ『シネマノスタルジア―郷愁映画館―』へ

当館は複数管理人による映画感想記事やラジオ放送を更新します。
うろ覚えとあやしい知識でだるく甘く痺れるアフタヌーンに運営します。
ついでに管理人達のイラストややる夫スレを紹介するかもしれない。



管理人:ヒロト/ツン/うづき/るん