2012年1月24日火曜日

映画 『ルルドの泉で』 奇跡があろうと、日常という孤独は変らない





 『ルルドの泉で』/2009/監督:ジェシカ・ハウスナー/墺・仏・独/カラー/2011.01.24記

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 ルルドへようこそ。


 キリスト教の聖地のひとつとされるルルド。フランスとスペイン国境ピレネー山脈に位置する小さな街だ。かつて聖母マリアが降臨し、奇跡を起こす水が沸く泉があるとされ、毎年数百万人が巡礼に来ている。映画「ルルドの泉」は、そんな聖地ルルド、ないし観光地ルルドをくまなく体験できる観光型映画ともいえる。


 というのも、この手の映画にありがちな宗教批判や、逆に奇跡の賛美。或いはつかいやすい題材をつかっての感動のストーリーを仕立てあげる、という事がほとんど意識されない。ルルドという題材事態が既に面白い題材なのだといわんばかりに、淡々とルルドという観光地での出来事が描かれる。まるでルルド紹介のドキュメンタリーふう映画だ。





 勿論、フィクションの劇映画である。パンフレットや、トレーラーを見る限り、とある信心深くない下半身不随の女性が、半信半疑でルルド観光に訪れたところ、なんと自分の脚が動くようになってしまった。そんな彼女に気がある男。子供を治したい母親の嫉妬や、信仰厚い老婆の偽善行為。冷やかしの客。やる気のない自分探しのシスター(実にビッチである)。業務的に達観している役人や神父。逆に信じていないからこそ冷徹なまでに善きシスターを演じられる女性。彼女らを交えサスペンスタッチで描かれる……といった具合に紹介されている。


 だが、実際はそこまで劇映画らしく各々が干渉しあうサスペンスが展開されるような事は、この映画には起こらない。それもその筈で、劇中に集まった登場人物はたまたま観光旅行に集まった役人と神父と介護のシスターに、客なのである。そんな集まりが、いくら奇跡が起ころうと互いに深く干渉しあうことなどない。確かに登場人物達が話題にする中心にあるのは主人公たる奇跡が起きた女性だ。だが、数人のグループ同士が彼女を話題に挙げたり、僻みを言ったりすることはあっても、実際に彼女が中心に入ることはない。上辺だけの「おめでとう」の言葉が彼女にかけられるだけ。


 劇中開始時から、以前の別の旅行で見知ったという男に恋心を抱く主人公。彼女は足がなおったという事実から、自信を持ち、積極的になりはじめる。だが、肝心の男は、優しい態度は示しても常にどこか距離を置いている。告白に対して男は「怖いんだ」などとのたまう。あげく、劇中ラスト間際、彼女は周囲に開いてもらった自分を祝ってくれるパーティの途中で倒れる。彼女はすぐに立ち上がったが、周りは「やっぱりね」といった空気が立ち込める。男は当然のごとく彼女から身を引く。何故なら、旅行で出会っただけの関係。奇跡が起きような何が起きようが、それと男の気持ちの動きは別物だからだ。その恋の結末に連動するようにして、彼女は気づいてしまったのか。もしかしたら、本当にたまたま立ちくらみがしただけなのかもしれないのに、用意された車いすに再び座り込んでしまう。そのまま映画は終わる。





 劇中には、この手の抑制の利いたストーリーには珍しく、濃いキャラクターを持つ登場人物が多い。


 神父に他人のためになる信仰を行えば魂が救われ奇跡が起きると言われたので、とにかく主人公の介護に徹する……というか、主人公に奇跡が起きるように他人を出し抜いて車いすを押す偽善行為の老婆。実際に主人公が歩けるようになったら、ドヤ顔で自分の手柄のように振る舞う。このドヤ顔が実によくできたドヤ顔である。


 一方で主人公の介護を担当している新人シスター。冒頭からやる気がない。目が明後日の方向だし、表情がぶっきらぼう。お眠りの前のお祈りも適当。あげく、担当を勝手に離れて、役人のイケメンに色目をつかったり仕事中にデートしたり、やりたい放題。就職理由も、新しい自分が見つかると思ったのときたものだ。実にバイトシスターといった体で、コンビニで働く女子高生か、正月の巫女さんバイトを思い出す。実にいいキャラをしている。


 前述のとおり、ストーリー重視であれば、そのストーリーのために必要なだけ登場人物が配置され、その動きも抑制されるため、次第にキャラクター性は薄れていくものだ。かといってキャラクターの個性同士が交錯するドラマチックな展開であれば、不自然さが目立ち始め、劇が強調される。ルルドの泉では、個々では個性的なキャラクターが登場しても、それら登場人物の交錯の仕方が実に絶妙なバランスで、「ルルド観光旅行の一幕を映しました」といった体裁が
実に違和感なく描写されている。誰もが、個性的なキャラクターを持っているが、全ては日常の延長線上として描写される。そして日常で他人に深く干渉しあう事など滅多にない。ドキュメンタリーよりもドキュメンタリーのような映画。





 主人公は自分の脚で立てるようになり、変わり始めた自分と世界から、奇跡を信じたくなった。だが、それらが一時のものであると感じたとき、奇跡も終わりを告げたのだ。ハネケのような乾ききった冷徹な描写とは、また違った冷徹さ。

奇跡があろうと、なかろうと、所詮は日常の一幕なのだ。


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記:ヒロト

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