2012年3月12日月曜日

映画 『サヴァイヴィング・ライフ 夢は第二の人生』 これはパイプではない





 『サヴァイヴィング・ライフ 夢は第二の人生』/2010/監督:ヤン・シュヴァンクマイエル/チェコ/カラー/2012.3.12記

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 「夢」を扱った切り絵アートとピクシレーションを最大限に活かした怪作。一見、あまりにも教科書どおりな心理学ネタ映画に見えるが、それこそこちらが分析家になったつもりで教科書には無い角度で見ると、また別の形が見えてくる。



※「夢と現がひとつになれば人生は完璧になる」このリヒテンベルクの言葉を映画と記事を最後まで読んでから考えてほしい

 うだつのあがらないエフジェンは夢を見た。それは名前がころころ変わる美しい女性との情事や、正体不明の子供に悩まされる夢だ。老いた女房の尻に敷かれる日々を送る真面目な彼は、せめて夢の中だけでも楽しく過ごそうと、同じ女が夢に出てくるようにオカルトや臨床心理士の力を借りて、夢の続きを意図的に見ていく。しかし夢は思わぬ形で彼の人生と交差していく。



 「思わぬ」と書いたが、それは心理学ネタを全く知らない者に限る。多少心理学をかじった者なら、心理学の創始者「フロイト」と「ユング」がどのような方向性で人の心を覗いて行ったのかは周知の事実だ。その為、宣伝文句で覚醒夢の話と銘打っている以上、誰でも判る結末へと収束していく。しかし、その収束の仕方が、まるで教科書の如く、美しい程に初期心理学的見地から収束していく。話の筋は先読みできるが、先読みできる人間は心理学ネタが好物なのと同義なので、ここまで美しく心理学ネタで構築されてくるとニヤニヤが止まらず感動してしまう。


だが本当にそれだけなのであろうか?



 監督の「シュヴァンクマイエル」はストップモーションのクレイアニメによる不気味な世界観で知られている。彼は20世紀初頭の不安な時代に産まれた芸術運動「シュルレアリスム」を非常に愛し、リスペクトしている。


 写真・複製技術の登場によって写実的な価値が芸術から廃れていった中で、彼らは人の想像的領域にこそ芸術的真髄があると説いた。一方20世紀初頭まで特権階級によって敷かれた芸術的指針が、二度の大戦や様々なイデオロギの狂騒で既存の価値観が崩壊し、信憑性が問われた事から、あらゆる面で革新的な運動をしなくてはならないという気運もあった。そして「シュルレアリスム」運動家「シュルレアリスト」達が芸術的革新の対象として目をつけたのが、複製も写真もとれない領域「夢」だったのだ。そしてその「夢」から人の心を分析しようと試みたのが心理学であった。つまり、「シュルレアリスム」を敬愛する「シュヴァンクマイエル」が、「夢」と「心理学」を題材にするのは当然であるし、内容構成が実に「心理学」的見地に沿って組み立てられているのは至極当然であるといえる。


 だが同時に「シュルレアリスム」は「芸術の解体」と「違う視点からのまなざし」を特徴としている。つまり単純に「シュヴァンクマイエル」が教科書通りの映画をつくる訳が無い(事実、彼はインタビューでこの映画を好きに解釈していいと発言していたらしい)。よって、好きなように私の解釈を述べる事にしよう。


 「夢」を扱った映画と宣伝されているが、「夢」のシーンは存在していないのではと私は思う。つまり映像で起こっている事象は全て現実なのだ。そうすると全ての物語が違った側面を見せる。


 ヒントは「夢」を「心理学」的見地から分析していく最中、それまで「仮定」であった事象を決定づけたセカンドハウスに残された写真と撮影者。かみ合ったパズルからエフジェンは自己完結し、ラストシーンへと向かっていく。だが都合よく見つかった数十年前の写真と、撮影者が癲狂院の患者である事について、物語に身を任せていると気にならず、物語が収束するカタルシスに流されてしまう。客観的に見て、この符号は信憑性に欠けるファクターだ。


 加えて、妻の夢にまで現れるエフジェンの夢の女性。エフジェンの夢に現れる集合的無意識・原型の存在、これらのユング的夢解釈のお膳立で、疑問を持たせないように構成されている。こちらも冷静に見れば、最終的にエフジェン独自の無意識下からの呼び声である筈の夢の女が、いくら夫婦とはいえ、直接的経験をエフジェンの幼少期と同期していない妻が、夢にその再現を見る事はまずありえない。妻が伝聞で聞いた心理学的解釈から、夢に再現されたといえるが、逆にいえばあれだけの情報での夢の再現であれば、彼女の主観がより多く介入する筈なので、夢の女は、妻が思い描く「障害」として類型されるだろう。


 写真の撮影者の件と、妻の夢に共通している事は、他方の「心理学」的見地から矛盾を指摘できる点を、カタルシスに不要である為、意図的に一方の「心理学」根拠からの物語的カタルシスに向けて誘導されている。


 では、エフジェンは「夢」を見ていないとするならば、彼はどうして「夢」の続きを所望し、心理分析に頼ったのだろうか。切り口として考えられるのはエフジェンの夢に現れる「子供」と、「乱暴な男」そして終始流される「奇怪な世界観の映像」だ。つまり、エフジェンが語り手のシーンは、エフジェンの主観による世界観なのではないか。


 糞真面目な人生を送ってきた彼にとって、「乱暴な男」や「子供」という側面は想定されえぬ事象だったのではないか。映画ではこれらの解釈として縦の時系列が用いられるが、それが全て横の時系列であったとしたらどうだろう。「夢」とされるシーンに現れる彼らはエフジェンただ一人の男なのだ。エフジェンという主観が彼らを、ありえない「夢」と解釈してしまえば、エフジェンにとってそれらは、まごうことなき「夢」である。


 そして夢の女は現実の女となる。巧みに「夢」に入るシーケンスをエフジェンや妻もとられているが、その後の映像が「夢」である保証はどこにもない。ましてや、「夢」とされるシーンも、現実とされるシーンでも、同じような切り絵とピクシレーションによる悪夢的世界だ。どちらが「夢」ともつかず差異は無い。「夢」で無いとするならば、女の行動はどのようなものであっただろうか。そして、ラストの浴槽のシーンはどう見えるだろうか。



 シュヴァンクマイエルは「シュルレアリスム」をリスペクトしている。ならば敬愛する「シュルレアリスム」や親密性の高い「心理学」のセオリー通りに作品を作る事がリスペクトといえるだろうか。答えは否だ。真に「シュルレアリスト」であるならば、「シュルレアリスム」さえをも解体する事を厭わない筈である。「シュルレアリスム」や「心理学」に詳しい者ほど、セオリー通りに事が運ばれればカタルシスに惑わされる。




既に両者は「既存の価値観」であり、「これはパイプではない」のだ。


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記:ヒロト


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