2012年4月15日日曜日

映画 『ホーボー・ウィズ・ショットガン』 自由人も社会構造の束縛下





 『ホーボーウィズショットガン』/2011/監督:ジェイソン・アイズナー/加/カラー/2012.4.01記

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 「ホーボー」とは流れ者である。19世紀の終わりから20世紀初頭にかけての不景気のなかで、土地から土地へと日雇い労働者を続けながら旅生活をしていたホームレス達である。雇用契約が経済社会の中心になる中で彼らはサブカル的な目線から「自由人」とも称された。そのような社会に縛られていると自認する者達からの羨望とは裏腹に、実際は経済的理由に迫られて流れ者にならざるを得なくなってしまった者が多い。





 流れ者の「ホーボー」としか呼ばれない男は、悪徳が支配する混沌の街に降り立った。そこでは警察やメディアをも支配する「ドレイク」という男が支配しており、老若男女問わず毎日「虐殺ショー」が行われていた。住民は恐怖と好奇心で精神的支配を受けていたのである。やがて自尊心も肉体的にも屈辱を受け続けた「ホーボー」はショットガンを手に取り立ち上がり、自警的啓発を促す運動をはじめる。住民達は啓発に刺激されつつも、「ドレイク」に従わない者は殺され、従えば富を得るという社会的構図から脱する事に臆し、「ホーボー」を抹殺する事に歓喜的に協力していく。劇中で「ホーボー」は新生児に、社会に生きれば悪徳に染まり生きるか、虐げられるか、そして散弾銃を持つしかないと論じ、事を成した「ホーボー」は、善悪の彼岸たる調停者としての「地獄の番人」の後継に推挙されるが、これを断る。やがて「ホーボー」と「ドレイク」、住民達の構図は破滅的な最後を迎える事に成る。


 過剰なまでに悪徳がはびこる舞台の街だが、古い時代の生き残りである「ホーボー」という社会から隔絶された世捨て人から見た現代の街並と見れば自然な世界観だろう。それほど、社会から剥離した視点で眺めれば現代社会は奇異に映るのである。劇中で名前を呼ばれない「ホーボー」はそうした社会から隔絶した視点の象徴である。だがそうした視点を持てるのは、彼が社会に距離を置く間だけ。観測者が接触を図れば観測者では居られない。「ホーボー」という観測者の地位は社会的束縛下において強要された観測者としての地位なのである。「ホーボー」である事を辞めた時に、その視座は失われる。視座の認識は幻想であり、社会構造下における階級移動が発生するだけで、パラダイムシフトとイコールではない。「ホーボー」は社会から隔絶されてはいるが、所詮は社会構造の役職のひとつに過ぎない





 監督の故郷を考えれば、犯罪の温床となるカナダとアメリカの国境周辺を思い浮かべられる。形而上における無賃乗車を続けながら土地を旅する「ホーボー」にとって、「かつてあった規範的な社会」という幻想としてのカナダと、「現実としての退廃的な社会」としてのアメリカの溝は大きい。そして彼らにとってどちらも自らの住む場所ではないのだ。


 社会における囚人のジレンマや、概念が社会的人間を束縛する構図等、様々な社会的要因が示唆される。エクスプロイテーション映画に属される形態で観客側への批判的視線を盛り込む等(意外とその手の映画にはよくある手法とはいえ)、なかなか挑戦的であるといえよう。因みにエクスプロイテーション映画、ないしグラインドハウスものが好きな人に対して、このような能書きを垂れる行為は失礼にあたるので絶対にしないように


 ただし、そもそも当映画本編を観ても上記のような感想はまず抱かないので安心されたし。


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記:ヒロト


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